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「松山俘虜収容所」

松山ロシア兵墓地とドイツ兵俘虜の墓
松山ロシア兵墓地とドイツ兵俘虜の墓/松山市

キーワード:捕虜・抑留・人の移動・異文化接触

 

問題の設定

  1. 日清/日露/日独戦争(第一次世界大戦)時に松山に設置された捕虜収容所(松山俘虜収容所)の事例を中心に、捕虜取り扱いの実態解明を通じて異文化接触とその影響について考察を行う。

  2. 捕虜政策と捕虜の収容所体験を調査し、「国家が引き起こすグローバルな人の移動」とその「ローカルな文脈へのインパクト」の関係を明らかにする。

 

2017年度の目標

  1. 日清・日露戦争および第一次大戦期の日本および欧州の捕虜政策に関する先行研究の収集・整理を行う。

  2. 第一次大戦時の松山俘虜収容所に関する資料の読解・整理を行う。

  3. 第一次大戦時の独墺俘虜について資料収集を行う。

 

研究報告2016年

松山俘虜収容所跡の巡検

2017年度からのプロジェクト開始に合わせて、3月より研究活動に着手した。その一歩として、まず松山俘虜収容所跡を訪ねた。 日清・日露戦争同様、第一次世界大戦(日独戦争)中も松山では捕虜が収容されることになった。

松山ロシア兵墓地とドイツ兵俘虜の墓
松山ロシア兵墓地とドイツ兵俘虜の墓
ドイツ兵俘虜(ラウエンシュタイン)の墓
ドイツ兵俘虜(ラウエンシュタイン)の墓
ドイツ兵俘虜の墓(背面)
ドイツ兵俘虜の墓(背面)

収容人数の減少に伴い、収容場所は日露戦争に比べると縮小されたが、松山市公会堂をはじめ、複数の施設が第一次大戦でも「流用」された。その内、山越地区の来迎寺、不退寺、浄福寺、長建寺、弘願寺や、松山城の西部にある大林寺といった寺院は姿を変えつつも、現在もほぼ当時と同じ場所にある。

不退寺
不退寺
浄福寺
浄福寺
長建寺(左手に弘願寺)
長建寺(左手に弘願寺)
弘願寺
弘願寺
長建寺(左手に弘願寺)
長建寺(左手に弘願寺)

この実見を通して、第一次大戦時の松山収容所は、同時代の欧州における本格的な「収容所」と比較すれば、小規模で分散した施設の寄せ集めに過ぎず、管理上の難しさと収容スペースの問題を抱えていたことが見て取れる。また当時の人口と市街が小さかったことを想起すれば、市街地という松山収容所の立地が、捕虜と民間人との接触機会を増大させ、異文化接触を可能にした一方で、この接触を避けようと、のちの他の捕虜収容施設の設置場所選定に影響を及ぼした点も確認できた。

 

鳴門市ドイツ館ならびに板東俘虜収容所跡の巡検

第一次世界大戦における捕虜の処遇はその人道性がつとに知られており、この点は映画『バルトの楽園』のモチーフともなっている。そのモデルである板東俘虜収容所は1917年に四国の松山・丸亀・徳島の各収容所を統合廃止するなかで開設された。この巡検では鳴門市ドイツ館を訪問し同館の展示資料を閲覧すると共に、板東俘虜収容所跡を見学した。

板東俘虜収容所跡
板東俘虜収容所跡
板東俘虜収容所跡案内図
板東俘虜収容所跡案内図

板東収容所は、市街地から離れた比較的広大な土地に設置され、周囲を鉄条網で囲い、バラックを備えていた。ここから、同収容所が立地条件、面積、施設の点で、松山収容所の問題点を改善すべく設置された新鋭の収容施設であることが実地で確認された。また当時のバラックは、第二次大戦後の引き上げ者の収容施設にも流用されたが、現在でもドイツ館の物産館に流用されており、その耐用年数の長さから「れっきとした建物」での収容方針も実見することができた。しかし同時に、当時の日本で最大級とされた板東収容所も欧州の事例に比べた場合に「手狭」とされる、その様子が跡地から理解された。

道の駅第九の里物産館
道の駅第九の里物産館
バラック移築の標識
バラック移築の標識
ドイツ橋
ドイツ橋
ドイツ橋の標石
ドイツ橋の標石
ドイツ兵慰霊碑の刻字(ラウエンシュタイン)
ドイツ兵慰霊碑の刻字(ラウエンシュタイン)

こうした松山と板東、板東と欧州、それぞれの同時代比較で現れる収容施設の「進化」と「途上」がいかなる意味を持つのか。この点については、今後の研究での検討課題としたい。

 

 

 

リンク

愛媛大学

愛媛大学法文学部