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「越境する海のNomad」

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日系マグロ漁師の像(2016年、ターミナルアイランド)

キーワード:冷戦、遠洋漁業、越境性、核実験、缶詰産業
 

問題の設定

 首都圏から見れば「僻地」である四国の太平洋岸は、オーストラリアの真珠養殖やアメリカ移民、そしてマグロ遠洋漁業と、常に外洋へ人を送り出してきた。本研究では、遠洋漁業最盛期の1950~60年代、マグロ遠洋漁業者を通して人と技術のグローバルなネットワークがどのように築かれ、外国への技術の伝播がいかに行われたのかを明らかにする。愛媛・高知・神奈川などで元マグロ魚船員や関係者への聞き取り調査を行い、遠洋漁業のグローバルな産業構造を解明するともに、愛媛・高知出身の漁業者が、台湾・韓国・アルゼンチン・キューバにまで及ぶ人の交流と技術の伝播に関与した経緯も解き明かす。本研究はまた、冷戦による東西対立と水爆実験とが、こうした活動にどのような影を投じていたかを、日米の公文書を用いて実証的に解明することで、技術の伝播と国際政治との関係を浮き彫りにする。
 

2016年度の目標

1. これまでの聞き取り調査(10数件)のテープ起こし原稿を「資料集」として印刷物にまとめる。

2. 国内の査読付き学術誌に論文を1本投稿する。

3. 国際学会にプロポーザルを提出する。
 

研究報告2016

三崎漁港での調査

 神奈川県三浦市の三崎漁港は、日本一のマグロ水揚げ基地として栄えてきた。ここでの調査が必要だと考えるに至った理由は、これまで行ってきた愛媛県・高知県における聞き取り調査の中で、元マグロ遠洋漁業者が三崎漁港にしばしば言及したからである。例えば三崎を拠点に出航・帰港し、三崎の船員寮で休養し、家族を呼び寄せて一定期間定住した等の経験を、なつかしそうに語ってくださった方が居た。マグロ遠洋漁業に従事していた末端の船員と、船主会社、船員組合、漁協などの相互関係を把握するためには、三崎漁港での調査が是非必要であった。そこで三浦市観光協会に連絡を取ったところ、元マグロ船の船長を紹介してくださった。


(写真1)元船長への聞き取り
1. 元船長への聞き取り.jpg
(写真2)マグロ船の出航
2. マグロ船の出航.jpg
(写真3)マグロの水揚げ
3. マグロの水揚げ.jpg

卸売市場を見学しながら元船長への聞き取りを行ったほか(写真1)、マグロ船主組合や船主会社での聞き取り、マグロ漁船の出航(写真2)、水揚げ(写真3)、競り市(写真4)の見学、さらに三浦市立図書館の「海洋文庫」で、関連資料を収集した。船主組合では、1950年代の漁船名簿などの貴重な資料も閲覧させていただいた(写真5)。一連の調査を通して、これまで不透明であった漁業者・船主・漁労長・組合などの相互関係が明らかになった。

 

(写真4)マグロのせり市
4. マグロのせり市.jpg
(写真5)1954年の漁船名簿
5. 1954年の漁船名簿.jpg

 

 

サンペドロでの調査

 ロサンゼルス空港から車で30分ほど南のSan Pedroは、かつてマグロ漁とツナ缶工場で栄えた町である。19世紀末から、主として和歌山県出身の日系移民が定住し、その一部は対岸のターミナル・アイランドでマグロ漁を始めた。1914年には、150人の日系移民が50隻のマグロ船で操業していたという。(Naomi Hirahara and Geraldine Knatz, Terminal Island: Lost Communities of Los Angeles Harbor, Angel City Press, 2015, pp. 150-151.)日系人のマグロ漁業技術の高さに着目したVan Camp社などのツナ缶産業がターミナル・アイランドに缶詰工場を建てて富を築いたが、第二次世界大戦中の日系人強制収容により、日系人コミュニティは壊滅した。ターミナル・アイランドのツナ缶産業は戦後もしばらくは繁栄したが、日本本国のマグロ遠洋漁業の隆盛と、乱獲による漁獲量減少によって、1960年代以降急速に衰退した。


(写真1)ツナ・ストリート
1.ツナ・ストリート.jpg


(写真2)スチーム工場跡2.スチーム工場跡.jpg

 

(写真3)日系マグロ漁師の像
3.日系マグロ漁師の像.jpg

 現在のターミナル・アイランドは倉庫や廃屋が立ち並ぶ荒涼とした風景であるが、キャネリー・ストリート(缶詰工場通り)、ツナ・ストリート(マグロ通り)等の道路標識がかつての面影を残し(写真1)、缶詰工場やスチーム工場の建物も残されている(写真2)。日本人街があった辺りには、日系人漁師のブロンズ像がひっそりと建っている(写真3)。

 今回の調査では、ターミナル・アイランドを見学するとともに、関係資料を、サン・ペドロ・ベイ歴史協会で収集した。同協会はサン・ペドロ町役場の建物の6階にある(写真4)。サン・ペドロは1909年にロサンゼルス市に編入されたが、地元住人は今もサンペドロ人(San Pedran)としての強いアイデンティティを保持している。独自の公文書館を運営していることも、そうした気質の現れのようだ。資料が整備されているとは言い難いが、ボランティア・スタッフの手によって昔の新聞やマグロ漁関係の本や資料が管理されており、リサーチ・ユニットの研究を進める上で貴重な資料を収集することができた。

 

米国立公文書館での調査

 カリフォルニア州サンペドロでの調査終了後、ワシントンDCに移動し、近郊のメリーランド州カレッジパークにある国立公文書館でアメリカ内務省の資料を調査した。内務省Fish & Wildlife Serviceの資料群の中に、日米「マグロ戦争」に関するかなり大量の文書があることが分かった。


(写真1)日米マグロ漁獲量比較
1. 日米マグロ漁獲量比較.jpg

 1950年代後半〜60年代にかけて、日本のマグロ延縄漁が全盛期を迎えると、アメリカのマグロ漁業は窮地に立たされた。公文書館の資料の中には日米のマグロ漁獲量を比較する資料が多く残されている(写真1)。戦前、ターミナルアイランドでマグロ漁をしていた日系人は、強制収容所から解放されても全員は戻って来なかった。船は戦争中に転売されたり放置され使い物にならなくなっていたりしたし、日本人街は見る影もなくなっていた。かわって白人やヒスパニック系の漁業者たちが、ターミナル・アイランドを拠点にマグロ漁に従事するようになった。しかし、大手ツナ缶会社は、アメリカでツナ缶の消費量が拡大するにつれ、日本から安いマグロを輸入するようになった。サンペドロでは、ツナ缶会社と日本のマグロ漁業に対する激しい抗議運動が起こり、アメリカ政府はマグロ漁業者に補助金を出さざるを得ない情況になった。


(写真2)アメリカ政府とマグロ業界の合同会議の要旨
2.アメリカ政府とマグロ業界の合同会議の要旨.jpg


(写真3)日本漁業についての調査レポート
3.日本漁業についての調査レポート.jpg

 

 アメリカ政府とマグロ業界は、官民合同の調査や会議を行い、日本に勝つための方策を模索した(写真2)。「マグロ戦争」(Tuna War)とも呼ばれる漁獲高競争の中、日本の漁業は徹底的に調査された(写真3)。日本の延縄漁業に対抗するために開発されたのが、アメリカの巻き網漁業であった。1962年の官民合同会議の記録では、「日本と競争可能な効率性を確保するために、革命的な新しい漁法が導入された」として巻き網漁が紹介され、さらなる改良が検討されている。(写真4)。こうした乱獲競争の果てに、マグロ漁獲量は急速に減少して行ったのである。


(写真4)巻き網漁の導入と改良について
4.巻き網漁の導入と改良について.jpg


 これら内務省資料の中では、水爆実験によるマグロの被ばく問題に一切言及されていないことも特徴である。アメリカ政府の他の部局(国務省や原子力委員会)の資料群には、ツナ缶会社が日本から輸入した冷凍マグロの放射能値を測定したことや、政府がそうした数値をモニターしていたことをうかがわせる記述が見られる。被ばくマグロの問題は、アメリカのマグロ業界が気に懸けながらも、けっして公には語らないテーマであったのかも知れない。これらの点については、さらなる調査研究が必要である。

 

 

 

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